名作紹介・「Merry X'mas you, for your closed world, and you...」 ――それが「あなたの」人間定義?

エロゲーの世界へようこそ!
 このゲームが始まるのは、主人公が段ボールを使って学校の理科室で風呂を作っているシーンからだ。
 なぜ風呂を作っているかというと、別に物理の自由研究で複雑な計算の末創りだされたものとか美術の工業デザインに片足を突っ込んだ課題とかそういうものでもなんでもなく、彼がどうしても風呂に入りたくなって、衛生のことを考えても一日一回の入浴は必要だと判断して、にも関わらず
 彼は学校を舞台としたエロゲーの主人公として当然のことながら学校の外へは出られないからだ。

・めりくりというエロゲを俯瞰するめりくりというエロゲというめりくり
 このゲームは、エロゲーに対するさまざまなお約束事に、ホラー的に、あるいはコメディ的に、さまざまな突っ込みを入れていく。
 まず主人公は、学校の外には出られない、なぜなら、外の背景が用意されていないから。
 端的に言ってしまえば、そういうメタフィクションネタを使ったギャグシナリオなのだと言ってしまっても差し支えない。
 どんな構えだよ。デッサンがおかしい。見ず知らずの他人をいきなりお兄ちゃんとか電波にも程があるだろ。デフォルメされたその平面の顔で、どうやってキスをしてるんだ。
 用意された人格に操縦され、困ったらはわはわとしか言わなくなる人工無脳じみたヒロイン。化物に襲われてぶっ飛ばされてもなぜか死なず、謎の力が目覚める俺。
 断言できる、このゲームはエロゲーマーなら間違いなく、プレイしていて失笑できる。

・やめろ相対主義を持ち出すな
 しかし実は、今紹介した、エロゲーをメタ的視点から抉りだしていくというキャッチーな「主題」は、枝葉にすぎない。
 このゲームはホラーであるのか。よくこのゲームが閉じ込められ系のホラーのバリエーションであると紹介されるように、ホラーであるのか。実際にいくらかギャグの範疇内で、エロゲーは狂気として描写され、それに伴って主人公の思考や行動は本物の狂気に満ちていく。その点でめりくりはホラーと紹介されることが多いことには納得がいくが、けれどホラーであることはテーマを内包しない。ホラーであるということはジャンルの区分けを決めるだけでしかないからだ。
 このゲームが持つほんとうのこと……幹、すなわちテーマは、その衒学的な文章の中にあるといえる。
 さまざまな用語群の散りばめられた、無駄に多学な主人公の一人称思考、無駄に多学な「まーき」とのテンポの良い会話。
 どちらも踊り出すほどに衒学的だ。読んでいるだけで面白い。
 もちろんこれらは面白さを生むだけのただのテキストの飾りではなく、その衒学的な磁界は、やがて一つの思考に収斂していく。
 「この世界は何だ?」 「(俺は/この世界は)何のために生まれてきた?」 「あの生物たちは人間か?」 いや、そもそも「俺は人間か?」
 人間とは、何だ。

・このゲームには結末が無いという人間は、
 クリスマスイブの夜に、このゲームは結末を迎える。
 作中作の、「めりくり!」としてのあらゆる伏線や問題は解決されなかったが、主人公の抱える問題は解決されて。
 主人公は、まーきとの対話の中で、人間の定義を見つけるのだ。
 そしてそれにともなった、世界の意義と、自分の意義も。
 それは、意識的無意識的であれ、誰もが対決するほんとうの試練であり、作中の言葉によれば「誰も目の前の相手が人間でないなどと思わないし、出会う人間相手にあなたは人間であるかないかなんていちいち宣言しやしない」が、その実この世界に生きる誰もが不安定な社会や不安定なアイデンティティのために、いつかは自分だけが人間だと思い込み、あるいは誰かを人間でないと思い込み、同時にその思考の歪さと戦わなければならなくなる。
 その試練に打ち勝つ事こそ、この物語の終焉だった。

 唯一の気がかりはまーきの存在だ。
 まーきはその二つの問題の解決に不可欠であるにも関わらず、まーきは(他の化物達と同じように)つくられた存在であり、世界の外の存在であり、デウスエクスマキナの手先であり、デウスエクスマキナそのものでもある。
 だから、いついなくなってもおかしくなかった。
 しかし、クリスマスの朝、まーきはそこにいた。
 少なくともしばらく――人が死ぬまでの間くらいには――の間は、まーきは消えていなくならないのだ。
 これをハッピーエンドと言わずになんというのだろう?
 これが、俺の、人間定義だ!!!!