マイナー名作紹介・「RURUR ル・ル・ル・ル」

・おねショタという頂点
 本筋とは全く無関係であるが、これだけは言っておきたい、おねショタは至高である。

・セックスによってSFとなる童話
 このゲームをプレイした人間がまず驚くことは、その珍妙な世界観と、それが全て色彩鮮やかなイラストで表現されていることと、まるで童話のような語り口だろう。
 章の合間合間にいちいち「何々なのでありました」と結んでくる、童話のような文体の童話がさし挟まれる。
 だから、RURURは童話であると言ってしまっても、実はそれほど差支えはない。

 しかし、この童話にはセックスがある。
 グリム童話は実は、のようなテーマの本を読んだことはあるだろうか。童話の本当の中身を聞いたことはあるだろうか。
 童話は基本的に、セックスが加わるだけで一気に、得体のしれない怪物じみた物語と化す。
 その恐怖は、あたかもいつまでも子供でいるのはやめろと言われているかのようなものだ。
 そしてその気持ち悪さはこのゲームをSFとする。
 SFとは単にサイエンスフィクションを指し示す言葉ではなく、SF(原義)作品全体になぜか共通して見られるあの精神を持っている作品群のことである。「あの精神」の定義はここでは避ける。

・子宮としてのエロゲー
 エロゲーには箱庭感があるとよく言われる。
 同じ背景、同じ立ち絵、同じ世界。
 無限に続くはずの世界は、立ち絵で表される限りで閉じてしまっているのだ。琴美が、坂の向こうは冥界であると信じたように。
 RURURの世界も、同じ背景、同じ立ち絵、同じ世界で構成されている。そしてかつ、他のエロゲーと比べ圧倒的に狭い。なにせ全てはたった一つの宇宙船なのだ。箱庭感というか箱庭なのだ。というか物理的に箱なのだ。
 当然、エロゲーに存在する箱庭感は、圧倒的に増幅され続ける。

 結果生まれるものはなにか。それは、子宮感とも言うべき全く新しい感触だ。
 空も、むしも、花も、草も、すべてはシロ姉が用意したもの。
 世界は全て人工的なもので、この世のたった一人の人間として、全ての者の愛を受ける。
 まんこみたいに穴開いて死ね、という発言は、本当に彼女をヤンデレであると証明するのだろうか?
 特に母親たるシロ姉の密かな狂気が、究極的に感じられただけなのではないか。
 逆に言えば、ありふれた下品なセリフが、それほどまでに狂気じみて聞こえるほどに、RURURの世界は子宮じみている。

 エロゲはいつかは卒業しなければならないものなのだろうか。
 エロゲが子宮であるならば、それは間違いない。
 だから、箱庭感がないエロゲが作られる必要がある。
 私は永遠にエロゲをやりたいからだ。
 そのために、子宮そのものであるエロゲーはたしかに必要だ。
 子宮であるエロゲーをやりたい人間が、そのエロゲーだけで満足し、それ以上の子宮を求めないために。