沙耶の唄非純愛論について

・概要
沙耶の唄非純愛論とは、端的に言って、「沙耶の唄で描かれている二人の恋愛は美しい純愛ではありえない。相思に至るまでに二人に選択肢がない以上、美しさを欠片も持たない、ただの必然の結果でしかない」という説。

(あるレビューを下敷きにしているのだけれど、このあるレビューが三時間探しても見つからなかった。知っている人がいたらぜひ情報がほしい。その際は必要に応じてこの文を書き直す。前提としておかしいのは承知している)
(ttp://hwm8.gyao.ne.jp/yagami/AVG/review/11/saya_no_uta_N.html デザインはこんなかんじだった(この人は全く違う人だし無許可)、個人サイトだった、あとそのレビュー内でもオタク批判につなげていたような気がした)
(あと下でも書いてるけど曲解してる可能性が少なくない)

・反対意見
選択肢は本当に存在しなかったのか?
ある。
シナリオと、一人称の持つ思考を奪う効果によって潰されているだけで、郁紀には世界の嫌悪感から逃げないという選択肢があった。
困難でも目を潰せば終了。
沙耶には怪物として生きるために人間の女性性性を放棄する選択肢があった。

一応言っておくと、そもそも美しくない恋愛が純愛ではないというのがおかしい。
純愛の辞書的定義はひたむきな愛のことである。
いきさつと背景がどうであれ、全てを捨てた主人公たちの関係が愛であるなら、純愛であることを否定するのは難しい。
辞書的定義を排除するなら、もはや「自分は純愛でないと思った」程度の主張しかできない。
当然、「沙耶の唄の恋愛は美しくない」という話をずらしているだけなので、ずれた言葉をあえて槍玉として使った人間も悪いけど、この反論にはあまり意味が無い。

・賛成意見
とはいえ、選択肢がない状況での愛は美しい愛とは言えないという見方には一定の説得力がある。
夜明けの口笛吹きのクリシュナとトトは、あの舞台となる仮想世界を滅ぼした時、「仲良くやらざるを得ない」。
ひぐらしのなく頃にの圭一たちは(友達レベルなので美しさが先に立つし、俺もある程度はそれでいいと思うけど、それでもやっぱり根底には)、人数が少なく「仲良くやらざるを得ないから仲良くなった」。
双六みたいにゴールインする二人の恋愛が美しいかは疑問が残るのは確かである。

かつ、沙耶の唄はプレイヤーの感受性次第で選択肢のない状況と誤認されうる。
以上により、沙耶の唄非純愛論がおこるのも無理は無い。

・その他、「虚淵玄は純愛のつもりで書いてない、ソースはVFB」という話
*1
描写されたゲームのテーマにおいて、作者の意図はまったく意味を持たない。
虚淵玄が「こいつらキモいだろ? こいつら怖いだろ? 誰も純愛であるとは思わないに違いない」というつもりで書いていたのなら、
単に虚淵玄が無能力であるという結論で終了。
作品とは作品のことであり、設計図のことではない。
人によっては設計図のことである場合もあって、その場合はこのページが意味を持たないが、その妥当性等はまた別の問題で、ここでは触れない。

・その他、沙耶の唄は※ただしイケメンに限るがテーマ
http://togetter.com/li/10179「少女が可愛く他が見た目が悪いという理由のために、長年付き合った友人を裏切る、郁紀は人間のクズである。
その人間のクズに感情移入させられ、感動してしまうという歪んだ体験を与えられる。
沙耶の唄は純愛を描写していない。むしろシナリオのレベルで愛情を皮肉っている」
罵倒するつもりでいたが、よく読めば筋が通っている。
どうしよう。
どうにかしなければ。

・その他、沙耶の唄における愛の始まりは打算であるというお話
沙耶は地球を侵略する生物であり、郁紀にとって自分にとっての同種の女は沙耶しかいなかった。
だから、この作品の二人は終始が打算でできている、というお話。打算と効率で始まった愛は美しくないというのは、俺はそういうのも好きだけれど、わからなくもない。
しかしここで考えて欲しいのは、地球を侵略する上で、なぜ沙耶は人間を強姦しなかったのかという点。
沙耶の強靭そうで意外に貧弱な膂力(?)の説明はあったが、手段はいくらでもある。
一人ぼっちで留守番している少年が寝ているスキに両足を砕いて体力が失せるまで待てば、楽に精巣を直接噛み砕くことができる。
それをしなかった理由は、物理的な困難ではないのだから、心理的な困難に他ならない。
ここまでは確実であり、沙耶は人間の倫理に似たものを持っていると推察できる。
一人ぼっちになって可愛い女の子が目の前にいて惚れるのが打算というのはちょっと理解ができないので反論できません。
利益でいえば汚物と付き合い続けて医者として稼ぐほうが圧倒的においしい。

・何を不可能として何を可能とするか、何を利益として何を損失とするかの問題 あるいは沙耶は人間であるか人間でないかという話 そして打算と効率でできた愛はほんとうに美しくないのか
前述のとおり、郁紀の立場に立って考えれば、シナリオ開始時のまま汚物達と付き合い続けて、医者として稼ぐほうが圧倒的においしい。
郁紀はそうせず愛に殉じた。愛から、逃げなかった。
郁紀はこれ以上のない人格者であるといえる。
伴侶との心安らかな日々が「利益」とみなされる現代社会にはほとほと呆れる。

……しかし、利益とはなんだろうか。
価値観を全て捨てた人間がいるとしたなら、この価値観でその人間の利益を測ることがほんとうに正しいのか。
私は正しいと思う。打算であるか打算でないかと人の行動を論じるならば、打算という言葉のある社会の尺度でその行動を論じなければならない。
だがもう一つ、本当に愛から逃げることができたのか。
三ルートすべてで郁紀が汚物と付き合い続けることができなかった以上、本当は彼は付き合い続けることがでないから、だから付き合い続けることができなかったのではないか?

沙耶は「人間」か?
「人間」であると認められるか、彼女は人間の倫理を本当に持っているか、人間の倫理を持っていれば六十億の殺人とありとあらゆる器物損壊が許されるのか。
彼女にとって、世界の侵略とはなんだったのか。
愛しい人のかつての同族を滅ぼし尽くすことについての罪悪感は? 愛と侵略を結びつける妄想の根は? どこまでが献身で、どこまでが罪悪感で、どこまでが本能だったのか?

我々は妊婦を見て淫売だとは思わない。
仮に思ったとしたら、それは思考障害だ。

・感情移入のポイント(締)
ところで、届かない恋は我々にとって果てしなく身近である。
沙耶や郁紀の愛が純愛であるかないかというのは、以上の理屈の前に、ロミオとジュリエットの経験値があるか、ロミオとジュリエットに感動を持てるかという話なのかもしれないと感想を回ってて何となく思った。


さて、ところで幼い昔の自分とはいえこの程度の反論も潰さないレビューに感銘を受けるワケがないし何が反論だよ
あと逃避が醜いと書かれてた気がするのをうろ覚えだから記事に書けないという理由に仮託して完全に置いておいてあるし
むしろそれを考えると選択肢があったっていう主張は最前提でありなんの意味もなさすぎてヤバい
一応「愛を捨てることが逃避」という筋の反論の用意はあるけど……
水月の考察みたいにローカル保存しておけば良かった





*1
*1



旧記事
・概要
沙耶の唄非純愛論とは、端的に言って、「沙耶の唄で描かれている二人の恋愛は美しい純愛ではありえない。相思に至るまでに二人に選択肢がない以上、美しさを欠片も持たない、ただの必然の結果でしかない」という説。

(あるレビューを下敷きにしているのだけれど、このあるレビューが三時間探しても見つからなかった。知っている人がいたらぜひ情報がほしい。その際は必要に応じてこの文を書き直す。前提としておかしいのは承知している)
(ttp://hwm8.gyao.ne.jp/yagami/AVG/review/11/saya_no_uta_N.html デザインはこんなかんじだった(この人は全く違う人だし無許可)、個人サイトだった、あとそのレビュー内でもオタク批判につなげていたような気がした)
(あと下でも書いてるけど曲解してる可能性が少なくない)

・反対意見
選択肢は本当に存在しなかったのか?
ある。
シナリオと、一人称の持つ思考を奪う効果によって潰されているだけで、郁紀には世界の嫌悪感から逃げないという選択肢があった。
困難でも目を潰せば終了。
沙耶には怪物として生きるために人間の女性性性を放棄する選択肢があった。

一応言っておくと、そもそも美しくない恋愛が純愛ではないというのがおかしい。
純愛の辞書的定義はひたむきな愛のことである。
いきさつと背景がどうであれ、全てを捨てた主人公たちの関係が愛であるなら、純愛であることを否定するのは難しい。
辞書的定義を排除するなら、もはや「自分は純愛でないと思った」程度の主張しかできない。
当然、「沙耶の唄の恋愛は美しくない」という話をずらしているだけなので、ずれた言葉をあえて槍玉として使った人間も悪いけど、この反論にはあまり意味が無い。

・賛成意見
とはいえ、選択肢がない状況での愛は美しい愛とは言えないという見方には一定の説得力がある。
夜明けの口笛吹きのクリシュナとトトは、あの舞台となる仮想世界を滅ぼした時、「仲良くやらざるを得ない」。
ひぐらしのなく頃にの圭一たちは(友達レベルなので美しさが先に立つし、俺もある程度はそれでいいと思うけど、それでもやっぱり根底には)、人数が少なく「仲良くやらざるを得ないから仲良くなった」。
双六みたいにゴールインする二人の恋愛が美しいかは疑問が残るのは確かである。

かつ、沙耶の唄はプレイヤーの感受性次第で選択肢のない状況と誤認されうる。
以上により、沙耶の唄非純愛論がおこるのも無理は無い。

・その他、「虚淵玄は純愛のつもりで書いてない、ソースはVFB」という話
1
描写されたゲームのテーマにおいて、作者の意図はまったく意味を持たない。
虚淵玄が「こいつらキモいだろ? こいつら怖いだろ? 誰も純愛であるとは思わないに違いない」というつもりで書いていたのなら、
単に虚淵玄が無能力であるという結論で終了。
作品とは作品のことであり、設計図のことではない。
人によっては設計図のことである場合もあって、その場合はこのページが意味を持たないが、その妥当性等はまた別の問題で、ここでは触れない。

・その他、沙耶の唄は※ただしイケメンに限るがテーマ
http://togetter.com/li/10179「少女が可愛く他が見た目が悪いという理由のために、長年付き合った友人を裏切る、郁紀は人間のクズである。
その人間のクズに感情移入させられ、感動してしまうという歪んだ体験を与えられる。
沙耶の唄は純愛を描写していない。むしろシナリオのレベルで愛情を皮肉っている」
罵倒するつもりでいたが、よく読めば筋が通っている。
どうしよう。
どうにかしなければ。

・感情移入のポイント
郁紀が沙耶に恋する話は、エロゲーに恋する人間にとっては、どうしても熱が入る。
どうしても結局、どれだけ感情を排除しても、
感情移入できなかった奴とできた奴の、「なんだこいつは!ガチクズじゃねーか!」「は?クズじゃねーし!愛だし!」な戦闘的一面は捨てきれない。

というか幼い昔の自分とはいえこの程度の反論も潰さないレビューに感銘を受けるワケがないし何が反論だよ
あと逃避が醜いと書かれてた気がするのをうろ覚えだから記事に書けないという理由に仮託して完全に置いておいてあるし
むしろそれを考えると選択肢があったっていう主張は最前提でありなんの意味もなさすぎてヤバい
一応「愛を捨てることが逃避」という筋の反論の用意はあるけど……
水月の考察みたいにローカル保存しておけば良かった




1
*2

*1:人気シューティングゲームシリーズがコミカライズされたとき、そのコミカライズは「シリーズ初の本格長編!」という煽りを持った。 誰もがその漫画に期待した。 しかし、今となっては誰もその漫画を本格長編と呼ぶものはいない。 誰もがそれを失敗作と考え、失敗作なりに歪みながら愛する者と、失敗作としてなかったことにする者に分かれる。 そこでの議論で、犬と書かれた猫理論という言葉が生まれた。 その漫画には、作者の力不足により、設定と描写、あるいはプロットが絡みあっていない問題が起きていた。 大多数の人間は、「設定と描写の食い違いは、設定を重視するべきだ」と言った。その酷い描写は、それまで界隈の人間に愛されていた設定、及び作中で文章として明言されている設定に反した。 しかし、「設定に食い違う描写しかされていないのだから、その設定のほうがおかしいのだ」と主張する人間もいた。 彼らは犬と書かれた猫理論、これは犬ですと書かれた猫を、彼らは犬と言い張っている、という理論で、対抗した。 (俺は犬と書かれた猫理論を全ての議論において全肯定するつもりはない。その界隈に二次創作があふれていたのは、シューティングゲームという小説や漫画とは全く違う媒体の作品として、設定を基盤に愛されていたためであり、そのことは揺らぐことがない。あの漫画は漫画である前にシリーズ作品であって、そのことを忘れた無方向な犬と書かれた猫理論には意味が無い) 犬と書かれた猫理論は、描写と設定だけでなく、描写と意図にも言える。

*2:人気シューティングゲームシリーズがコミカライズされたとき、そのコミカライズは「シリーズ初の本格長編!」という煽りを持った。 誰もがその漫画に期待した。 しかし、今となっては誰もその漫画を本格長編と呼ぶものはいない。 誰もがそれを失敗作と考え、失敗作なりに歪みながら愛する者と、失敗作としてなかったことにする者に分かれる。 そこでの議論で、犬と書かれた猫理論という言葉が生まれた。 その漫画には、作者の力不足により、設定と描写、あるいはプロットが絡みあっていない問題が起きていた。 大多数の人間は、「設定と描写の食い違いは、設定を重視するべきだ」と言った。その酷い描写は、それまで界隈の人間に愛されていた設定、及び作中で文章として明言されている設定に反した。 しかし、「設定に食い違う描写しかされていないのだから、その設定のほうがおかしいのだ」と主張する人間もいた。 彼らは犬と書かれた猫理論、これは犬ですと書かれた猫を、彼らは犬と言い張っている、という理論で、対抗した。 (俺は犬と書かれた猫理論を全ての議論において全肯定するつもりはない。その界隈に二次創作があふれていたのは、シューティングゲームという小説や漫画とは全く違う媒体の作品として、設定を基盤に愛されていたためであり、そのことは揺らぐことがない。あの漫画は漫画である前にシリーズ作品であって、そのことを忘れた無方向な犬と書かれた猫理論には意味が無い) 犬と書かれた猫理論は、描写と設定だけでなく、描写と意図にも言える。